• Column
  • 現役DX責任者が挑むビジネスとデジタルの協働

複合企業グループの「神経系」となるデータ統合への決断【第1回】

秋田 正倫(エア・ウォーター 上席執行役員 AI・DX推進室長)
2026年10月20日

11カ月で、経営に「視界」が戻り始めた

 新方針を掲げてから、約11カ月。全社共通のデータ・マスタ基盤が本格稼働を開始し、グループ内のデータが(ある程度まで)見通せる状態になった。

 ヒト・モノ・カネ、取引実績、保有資産に加え、事業別・ユニット別のROIC(Return on Invested Capital:投下資本利益率)や在庫、債権・債務に至るまでが対象だ。かつて担当者たちが数日かけてかき集めていた数字が、同じ定義で、同じ場所に、同じタイミングで並ぶ。たったそれだけのことが、15年実現していなかった。ただし「ある程度」と留保を付けるのは、まだ道半ばだからだ。

 それでも組織に確かな変化が生まれた。最も大きかったのは、経営会議の議論の中身である。以前は「その数字は正しいのか」という検証に多くの時間を割いていた。それが今では「この数字をどう読むか」から議論が始まり、次にどんな手を打つかへと話が進むようになった。

AIエージェントがFit to Standardの前提を外す

 あれから2年がたった。冒頭で述べた変化の正体を、ここで整理しておきたい。

 Fit to Standardが前提としていたのは、システムの制約だ。業務プロセスも操作画面も、パッケージが決めた仕様に従うしかない。だからこそ、人間の側が合わせてきた。SaaSの本質も同じで、決められた画面を決められた通りに使うことと引き換えに、標準化の恩恵を受ける仕組みだったといえる。

 しかし現在、その制約が外れつつある。いまや、AI(人工知能)エージェントは自分たちの手で作れるようになり、画面のデザインや操作の流れといったUI(User Interface)まで、使う側の都合に合わせて自由に設計できる。極端に言えば、どれほど使い勝手の悪いシステムであっても、その上にチャットの層をかぶせてしまえば、現場は話し掛けるだけで用が足りる。

 そうなれば、業務の手順を無理にパッケージへ合わせる理由は薄れる。人間がシステムに合わせるのではなく、AIエージェントの側を業務に寄せればいい。SaaSというビジネスモデルのあり方自体も、1つの区切りを迎えつつあると私は考えている。

 その意味で、“SaaS is Dead”という言葉は半分正しく、半分は誤っている。SaaS自体が不要になるわけではないからだ。

 サイバーセキュリティの観点で見れば、AI技術の拡大は、攻撃側の人数を1万倍に増やしたようなものだ。インターネットにつながる自前のサーバーやクラウド基盤を自社だけで守り切るという前提は、もはや成り立たない。堅牢に管理された「箱」としてのSaaSの価値は、むしろ高まっている。

 変わったのは箱の中身ではなく、箱と箱のつなぎ方だ。API(Application Programing Interface)や、AIエージェントと外部システムをつなぐMCP(Model Context Protocol)を介して、それぞれをどう連携させるか。そこが次の勝負どころになる。この議論については、本連載の後半で改めて掘り下げたい。

 箱として残るという点では、ERPも同じだ。業務をシステムの標準に合わせる必要がなくなったとき、ERPに求められるのは、業務を成立させる最低限の機能と、そこに組み込まれたガバナンスルールの2つに絞られていく。

 だからこそ、先に述べたガバナンス要求をERPの権限設定として作り込んでおくことが効いてくる。チャットでERPを操作することが当たり前になれば、誰もが自然な言葉でシステムを動かせるようになる。そのとき歯止めは、画面の外ではなく、システムの内側に置かれていなければならない。

2年前の判断が、最も価値ある資産を残した

 UIもアプリケーションもAIエージェントで組み替える時代に差を生むのは、データがどう構造化され、誰がそれをどう扱ってよいかを定めた「データ・ガバナンス」層だ。冒頭で示した答えは、ここに行き着く。

 振り返れば、データ統合へ舵を切った2年前の判断は、まさにこの層への投資だった。正直に言えば、当時Fit to Standardに乗らなかったのは、その終焉を見越していたからではない。データ要求から固めるという、別のアプローチを選んだからだ。だが結果的には、乗らなかったからこそ、いま最も価値を持つ資産が手元に残った。あの時の判断は、間違っていなかったと思っている。

 この基盤は、のちに決算業務や統制といった「守りの領域」でAI技術を実装していく際の土台にもなった。その経緯は、第5回で改めて触れたい。

 次回は、私たちが経営と現場をあえて切り分けた「戦略」について述べる。経営の意思決定を変える「経営DX」と、現場の効率化を目指す「業務DX」。この2つを分けた設計が、その後の展開を大きく左右した。

秋田 正倫(あきた・まさのり)

エア・ウォーター株式会社 上席執行役員 AI・DX推進室長。大学院で電気電子工学を修了後、キヤノンにて7年間プリンター設計・開発に従事。その後、エムティーアイで16年間マーケティング責任者やヘルスケア事業本部長を歴任。2023年5月にエア・ウォーターに入社し、経営企画室長を経て現職。「AW Agent Factory」による1万体のAIエージェント実装や「Trust DX」など全社のDX戦略を牽引。