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量子コンピューター時代に向け「量子Ready」への着手を【第4回】
競争軸は「量子ビット数」から「誤り訂正の質」へ
量子コンピューティングにおける技術面での最大の変化は、開発競争の軸が量子ビット数を増やす“量的”競争から、エラーを抑えて質の高い計算を実行する“質的”競争へ移りつつあることだ。近年、誤り訂正技術の進展により、複数の物理量子ビットを束ねてエラーから守る「論理量子ビット」を、いかに信頼性高く拡張できるかが、実用化に向けた焦点になっている。
国内外では量子ビット数の拡大に加え、量子計算の実行効率を高めるアーキテクチャーやアルゴリズムの開発も進んでいる。特に、量子化学計算などの領域では、必要な計算資源や実行時間を大幅に削減する研究成果が報告されている。大規模な量子コンピューターの完成を待たずに、一部の実用計算へ取り組める可能性が広がっている。
また、ハイブリッド型の設計が現実的なシステム構成として注目されている。すなわち、量子コンピューターが単独で従来型の高性能計算基盤を置き換えるのではなく、HPC(High Performance Computing:高性能計算)基盤に量子プロセッサーをアクセラレーターとして組み込む方式だ。これは、企業が量子コンピューティングの活用を検討するうえで重要な変化である。
これらの動向を踏まえると、量子アニーリングは2030年代前半にかけて本格的な社会実装が進むと見込まれる。量子ゲート方式も初期的なFTQCの実現を見据えたロードマップが示されている。その後に、製薬や材料化学、金融などの分野では、一部実用化へ向けた取り組みが進む可能性がある。数年前と比べ、実用化を見据えたロードマップは前倒しされる傾向にある(図2)。
量子リスクが高まり暗号移行の期限が迫る
量子コンピューターの実用化の前倒しは、事業機会だけでなくリスクの前倒しも意味する。現在主流の「RSA-2048暗号方式」は、従来型コンピューターでは解読に30年以上かかるとされてきた。それが、100万量子ビット未満の量子コンピューターでも特定条件下では1週間以内に解読し得るとの研究成果が2025年に報告されている。必要な量子計算資源の見積もりが現実的な議論の対象になりつつある。
暗号が無効化する「Q-day」の到来時期については、なお不確実性が大きい。しかし、近年のハードウェア開発とアルゴリズムの改善を受け、従来の想定よりも前倒しを警戒する見方が強まっている。
深刻なのは、暗号化されたデータを今のうちに窃取・保存し、将来の量子コンピューターで解読する「Harvest Now, Decrypt Later(HNDL):今収穫(窃取)し、後で解読する」型の攻撃が、もはや現実的なセキュリティリスクとして認識されるようになっていることだ。10年後も秘密であるべき顧客情報や知的財産は、今日の時点で既にリスクにさらされていると考えるべきである。
各国・地域政府の動きも具体化している。米国や欧州連合(EU)のほか、英国などのPQCへの移行期限はおおむね2030年から2035年に設定されている。日本も内閣官房が2025年11月に公表した『政府機関等における耐量子計算機暗号(PQC)への移行について(中間とりまとめ)』において、原則2035年までにPQCへ移行する方針を示し、2026年度に工程表を策定するとしている。
米国は2026年6月、米行政管理予算局(OMB)が各政府機関に対し、耐量子暗号への移行を加速する新たな指針『M-26-15』を公表し、重要システムの移行目標時期を明確化した。
金融分野では、金融庁の検討会報告書に続き、2026年1月にはG7のサイバー・エキスパート・グループ(CEG)が金融セクター向けの『PQC移行ロードマップ』を公表するなど、対応は待ったなしの局面に入っている。
こうした移行目標は「Q-dayが、その年に到来する」という予測ではない。むしろ、暗号移行に要する長いリードタイムを踏まえ、量子リスクが顕在化する前にシステム全体を段階的に移行するための期限と捉える必要がある。暗号移行には10年以上を要するとも言われており、逆算すれば着手のタイミングはまさに「今」である。
「量子Ready」になるための企業のロードマップ
冒頭で、企業が今取り組むべきなのは量子コンピューターの導入ではなく、自社にとっての事業機会と量子リスクを整理し、中長期の準備を始めることだと指摘した。では何から始めるべきか。
当社では加速する量子時代のリスクと事業機会に備えた状態を「量子レディ(Ready)」と呼んでいる。それへの対応を「攻め・守り・経営」の3層で整理している(図3)。
攻めの出発点
ユースケースの棚卸しから始める。既存のコンピューターでは計算負荷が重いが、解決すれば利益にインパクトがある業務を洗い出し、実用に近い量子アニーリングでの小規模なPoCから実証を始める。並行して、最適化問題を量子で扱える形式に定式化できる人材の育成や、コンソーシアム参加による知見の集積を進め、FTQC時代の本格投資に備える。
守りの出発点
クリプトインベントリ(暗号資産の棚卸し)から始める。自社システムの、どこで、どの暗号アルゴリズムを、何の用途で使っているかを可視化し、データの重要性と保存期間から優先順位を付けて移行ロードマップを策定する。将来の暗号方式の変化にも柔軟に対応できる設計思想(クリプトアジリティ)を織り込むことも重要である。
攻めと守りに共通する課題が人材だ。量子技術と業務ユースケースの両方を理解する人材は世界的にも希少である。海外の議論でも「産学連携での育成や既存のコンピューティング人材の転用がカギになる」と指摘されている。海外に目を向ければ、米国や欧州では金融を中心にPQC移行が一部先端企業だけの関心事ではなくなっているだけに、日本企業も先行地域の知見を取り込みながら準備を進める段階にある。
経営の出発点
これらを支える前提になるのが経営層のコミットメントだ。量子リスクへの対応はセキュリティ部門だけで完結せず、システム再構築の投資判断と企業の信頼に関わるCXOレベルの経営課題である。攻めのユースケース開発は事業部門と研究開発部門の連携を要する。
いずれも数年単位の取り組みであり、準備の遅れが、そのまま競争力の差になる。量子Readyの第一歩は、必ずしも大規模な投資ではない。重要なのは、自社の量子リスクと事業機会を可視化し、中長期のロードマップを描くことだ。量子を「研究開発部門の将来テーマ」に閉じ込めず、経営アジェンダとして捉え“攻め”と“守り”を同時に進めることが量子Ready企業への道である。
AIトランスフォーメーション(AX)が企業競争力を左右するように、2030年代には量子Readyであることが競争力の新たな条件になる可能性が高い。今求められているのは、量子コンピューターそのものへの投資ではなく、量子Readyへの投資だ。
次回は、脳科学とテクノロジーの融合領域である「ブレインテック」を取り上げる。認知科学が変革するビジネスパラダイムについて解説する。
山本 良太(やまもと・りょうた)
KPMGコンサルティング マネジャー。大手電機メーカー、半導体ベンチャーおよび技術商社を経て現職。半導体技術開発、中国における技術営業、AIソリューション事業の立ち上げなどを経験。現在は、AIを用いた事業変革・新規事業開発支援やエマージングテクノロジー活用支援などのプロジェクトに従事。工学修士、MBA。監修書に『日経MOOK AIで加速するエマージングテクノロジー』(日経BP)、寄稿多数。


