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- 今こそ問い直したいDXの本質
そもそも文書は“美しく”なければならないのか【第24回】
AIの広がる姿が想像できないあなたへ
LLMを前提にすれば“箇条書き”が復権する
このように、情報量が対話的に変化し、文体を読者が選べる時代になったとき、発信する側はどうあるべきなのでしょう。仮に自分の発した情報がLLMを介して読まれることを前提にすれば、何を考えておけばいいのでしょうか。
筆者は、文章が大氾濫する時代を経て、箇条書きが復権すると考えています。あるいは表形式でもいいし、データでもいい。要するに絞り込んだエッセンスの発信になると予想しています。
最初の文章では「人間ならではの文章力を磨き続ける姿勢が、これからの時代には求められています」とありました。ですが、実は文章を長々と綴る必要はなくなるのではないでしょうか。筆者のように物を書くのが趣味ならば別ですが、普通に考えれば、どうせ変形して読まれる文章の細々としたところにこだわって書く時代は終わります。
かつて手書きで文書を作成していた時代には、美しい文字を書く必要がありました。しかしPCで書類を作成する現在において、字が上手いかどうかは趣味の範ちゅうになっています。おそらく同様に、美しい文章を書けることも趣味の技巧になるでしょう。LLM時代にあって、情報を伝えるという点において重要なのは、受け手に伝えたい必須の内容を十分に吟味する能力になるのではないでしょうか。
ここで誤解しないでほしいのは「今は過渡期だ」ということです。現時点で、例えば顧客に送る謝罪メールが箇条書きでは、おそらくは謝罪として成立しないでしょう。しかし近未来において、メールソフトウェアにAI技術が標準搭載され、箇条書きで送っても受け手が好きな文体で読むのが一般的になれば、箇条書きは失礼でも何でもなくなります。
もちろん今でも手書きの履歴書が絶滅していないように、一部では文章を丁寧に書くことが美徳とされる文化が残るかもしれません。しかし合理的な文化の下では、箇条書きで送信しLLMを介して読むというフローを排除する理由は想像できません。
コンテンツは受け手に最適化される
端的な情報収集を好む人であれば、AI(人工知能)システムを使って、さまざまな文章を箇条書きに要約し、どんどん摂取するのが高効率です。逆に流麗な文の連なりを好む人なら、箇条書きをAIシステムに掛け、文章を生成して読むほうが心地いいでしょう。
ChatGPTに代表されるLLM以前は、変換精度が低く、箇条書きか文章かの違いは重要でした。しかし最近は精度も高まり、少なくとも意味を汲み取りたいという実用的な用途に関していえば、もはやその違いはないに等しくなりました。
LLMにより文章の生成や変換が誰にでも開放されたことは、個人にカスタマイズした文章の生成が可能になり、読者体験が劇的に変化することを意味します。アルチュール・ランボオの苛烈な詩を村上春樹の穏やかな語りで読むことだって可能かもしれないのです。
LLMが今「生成AI」という名前で流行していることから分かるように、LLMは説明文書や報告書、メールなど、さまざまな文章を書いてくれるという点で評価され、文書を作る側に役立つ仕組みだと理解されています。しかし筆者の予測は少し異なります。LLMは読者への“福音”になるのです。作成側は必要最低限の文章を作成すればいいという形で恩恵を受けるのでしょう。
もしかすると、文章以外のコンテンツも、そうなるかもしれません。音楽や動画も、コンセプトだけを受信し、自分の好みのスタイルに生成して楽しむという未来像です。ある商品の説明文を手にした際に、それを基に比較表を作成する人、文章と音声を生成して耳で聴く人、スタイリッシュな動画を生成して観る人などがいる世界。これが筆者の考える “情報量”と“読者体験”ですが、果たして未来はどうなるでしょうか。
磯村 哲(いそむら・てつ)
DXストラテジスト。大手化学企業の研究、新規事業を経て、2017年から本格的にDXに着手。その後は中堅製薬企業等でDXに従事し、現在は準大手ゼネコン企業のDX・IT責任者を務める。専門はDX戦略、データサイエンス/AI、デジタルビジネスモデル、デジタル人材育成。個人的な関心はDXの形式知化であり、『DXの教養』(インプレス、共著)や『機械学習プロジェクトキャンバス』(主著者)、『DXスキルツリー』(同)がある。DX戦略アカデミー代表。