- Column
- 今考えたいエマージングテックの価値と企業の成長戦略
ブレインテックが創出する「認知データ」による人間理解が新たな価値に【第6回】
顧客接点の体験設計
顧客接点では、購買や離脱に至る過程も改善の対象になる。同じ“離脱”でも「情報が多すぎた」のか「関心を失った」のか「選択に不安を感じたのか」などによって、打つべき施策は違ってくる。広告や売り場で「どこに注意が向いたのか」「どの説明で理解が滞り、どこで迷いが生じたのか」。それらが分かれば、デザインや導線、情報量を的確に見直せる。
年齢や購買履歴が似た人でも、その日の疲労や利用目的によって、望ましい情報量や案内方法は異なる。固定的な顧客像に加え、変化する状態にサービス側がどう応答するかが問われる。
体験を状態に応じて細かく変えられるほど、支援と心理的な操作の境界は曖昧になる。疲労、不安、焦りにつけ込んだ選択肢の誘導では“顧客体験の改善”という説明は成り立たない。企業は、利用者が情報を理解し、比較し、自ら選び、必要なら断れるまでに設計基準を設ける必要がある。
人事・組織における体験設計
人事・組織領域では、利用目的に応じた線引きが必要になる。集中が途切れやすい会議や、認知負荷が急激に高まる業務手順、疲労が蓄積しやすい勤務設計が把握できれば、仕事の構造を改善できる。安全性が重視される現場では、注意低下の兆候を本人に伝え、休憩や確認行動につなげる使い方も考えられる。
配置や育成の参考情報として使う余地もある。ただし、推定値を能力や意欲そのものとはみなせない。認知状態は、その時の体調や環境で変わり、測定条件によって誤差も生じるからだ。採用、昇進、処遇を決める単独の根拠にはせず、本人への説明、データの確認、人による判断、異議申立ての経路を備える必要がある。
職場には、雇用者と従業員の力の非対称性もある。形式上は同意していても、断ることで不利益を受けるなら任意性は損なわれる。評価・選別に関わる利用と、本人の健康・安全を支える利用は、制度上もデータ上も明確に分けるべきだろう。
認知データによる“本人”へのフィードバックも事業価値に
認知データは既存業務の改善にも使えるほか、本人が自分の状態を理解し、環境との関係を調整するサービスの基盤にもなり得る。例えば、集中、疲労、緊張の傾向を振り返るセルフケアが挙げられる。光や音、情報量を状態に合わせて調整する空間や、本人と専門家が同じ変化を見ながら話す支援サービスなども考えられる。
企業が得た知見を本人に返し、自分の状態を知って環境を選び直せるようにする。そこにも利用者にとっての便益がある。本人がフィードバックを受け、その内容を確かめ、必要に応じて調整を止められる設計は、サービスへの納得感と継続利用にもつながる。
認知データの事業価値は(1)把握、(2)適応、(3)共創の3段階で考えると分かりやすい。
段階1=把握 :反応や負荷を把握し、既存の体験を改善する
段階2=適応 :状態に応じて情報や環境を変える
段階3=共創 :本人もデータを理解し、企業や専門家とともにより良い状態をつくる
段階が進むにつれて、計測精度に加え、本人へのフィードバック、介入の妥当性、継続的な信頼関係が事業の成否を左右する。この流れは事業モデルにも影響する。一度測ってレポートを納品するだけでは、提供できる価値は限られる。状態変化を継続的に捉え、介入し、その後の変化を本人とともに確かめることで、分析は継続支援型のサービスになる。
データの蓄積も、信頼を伴って初めて事業資産になる。利用目的が明確であり、本人が具体的な便益を実感できること。不要なデータが適切に削除されること。こうした信頼は、継続的なデータ提供と利用を支える、サービスの構成要素である。
認知データの活用は事業課題から逆算する
企業が最初に問うべきは「何を測れるか」ではない。「どの意思決定を改善したいか」だ。「顧客の離脱を減らす」「研修の理解度を高める」「事故リスクを下げる」など、まず改善したい課題を定め、そこから必要な指標と介入を逆算する(図2)。
その上で認知データを加え、判断や体験が実際に改善したかを確かめる。ダッシュボードが増えても、意思決定や体験が変わらなければ、事業価値にはならない。投資判断に向けた実証では、次の3つの問いを検証し、一体で評価する必要がある。
問1=追加的な説明力 :既存データでは説明できなかった何が分かったのか
問2=介入後に確認された変化 :その発見から、実行可能な改善を導けたのか
問3=利用者の受容性 :利用者は、計測と介入を妥当なものとして受け入れたのか
評価の設計段階から、利用目的や保存期間、二次利用の範囲を限定し、必要最小限のデータを扱う。撤回可能な同意と、利用しない場合の代替手段も必要だ。「何を、どの程度の精度で推定しているのか」「どの集団や環境で誤差が大きくなるのか」を継続的に検証し、重要な判断には人による確認と異議申立ての経路を残す。その設計は、事業、データ、法務、人事、セキュリティの各現場が共に担う必要がある。
脳とAI技術が扱えるのは、状況によって揺れ動く反応の一部に限られる。同じ反応でも意味は異なり、推定には不確実性が伴う。だからこそ「誰のために、どの意思決定に使い、本人にどのような選択権を残すか」を先に定めたい。
そのうえで、人を細かく管理するのか、あるいは、言葉にならない困りごとを見つけ環境を整えるのか。それらの分岐は、利用目的と設計思想によって決まる。技術の限界を踏まえながら、人と環境との関係を少しずつ改善する。そこに認知データの事業価値がある。
野村 理朗(のむら・みちお)
KPMGコンサルティング シニアマネジャー。博士(学術)。心理学・脳科学・AIを基盤に、約30年にわたり基礎研究から社会実装、新規事業・サービス開発まで一貫して手がける。京都大学で先端研究を推進するとともに、技術進展を人間起点で捉える「Human Layer」の観点から提言を行ってきた。大手企業・省庁との連携、スタートアップ創業を通じ、事業戦略構築・資金調達・市場導入をリード。国内外で論文120編、著書30冊超、学会賞など受賞多数。経済産業省研究会専門委員、国際学術誌編集委員などを歴任。

