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  • 会津若松市はデジタル化をなぜ受け入れたのか

デジタルに向けた会津若松市の資産と課題【第2回】

〜データに基づく市民中心のスマートシティの実像〜

中村 彰二朗(アクセンチュア 福島イノベーションセンター センター長)
2017年12月21日

前回は会津若松市のスマートシティの現状について、その概要をお伝えした。今回は、時間を一旦、プロジェクト開始時まで巻き戻し、そもそもなぜ会津若松市なのかを紹介する。当時、会津若松市が直面していた課題と、デジタル化を受け入れるにあたって前提となる会津の資産について触れてみたい。

 2011年3月11日、未曽有の被害をもたらした東日本大震災が発生した。それから1カ月が過ぎた4月20日、経済産業省が主催する復興会議が開かれた。会津若松市のデジタル化は、ここから始まったのである。

多くの企業が動くも机上の議論だけでは進めない

 当時、被災地では復旧作業が、あわただしく実施されており、多くの企業が社会的責任を果たすべく、復興支援チームを組織し、復興支援策を模索していた。筆者らアクセンチュアも社長直下でチームを編成し議論を重ねていた。だが、現地に関する情報が限られるなかでは、机上の空論を繰り返していたと言わざるを得ない状況だった。

 そうした状況下で、経産省は状況を打破するために、岩手・宮城・福島の3県から代表者を招き、「被災地が今、何を求めているか」という“生の声”を伝える会議を開いた。その場には、業界の垣根を超えた数百人の参加者がいた記憶があるが、会を主催した経産省の担当官から発せられた、「日本の未来は、いま集まっている皆様の肩にかかっているのです」という言葉が今も頭に残っている。

 同会議での福島県の代表は、会津若松市で地域プロデュース事業を手がけていた会津食のルネッサンス(現・本田屋本店)の代表を務める本田勝之助氏である。あまりにも生々しい震災被害の状況報告と、日本全国民への心からの感謝の言葉に続けて本田氏が発した強いメッセージは、今も胸中で響いている。

「東北、特に福島は復興に長期間を要することが想定されるだけに、多くの雇用を創出していかねばならない。どうか、復興支援ではなく、新たな事業を福島で興してほしい!」

 本田氏には、二度手間になり申し訳なかったが、アクセンチュア復興支援チーム会議へも改めてお越しいただき、被災地からのメッセージを直接伝えていただいた。被災地からの生の声が功を奏し、2011年6月8日、拠点開設を目的とした福島訪問が実現した。その日、アクセンチュア復興支援メンバーの3人は、福島県南相馬市の現状視察から福島県を表敬訪問した後、会津若松市に向かった。

会津若松市はまさに“コンパクトシティ”だった

 磐梯山の麓から会津若松市の盆地に下る坂道で見た光景は、まさに「コンパクトシティ」のそれだった(写真1)。会津若松市をハブとして、近隣自治体が連携しているイメージだ。示し合わせたように3人は、全く同じ印象を持っていた。会津若松市のデザインは、このときすでにイメージされていたのだ。

写真1:“コンパクトシティ”会津若松(筆者撮影)

 会津若松市に到着してからは、会津若松市市長、会津大学学長と面談。その夜は、市内の東山温泉に宿泊させていだいた。そこは、震災の被害を大きく受けた大熊町の住民の避難場所であった。

 「この町は、復興拠点にふさわしい」——。3人の結論は意外に早かった。3人が共通に持った理由は以下の通りである。

理由1:会津若松市内には大熊町から多くの避難者が暮らしている。アクセンチュアのメンバーも一緒に暮らすことで、現場の素直な意見が聞けるのではないか

理由2:広域の会津地方(17自治体)では、千葉県と同等の面積の中に、約28万人が暮らしている。まさに会津若松市(約12万人)を中核としたコンパクトシティである

理由3:復興には雇用創出支援が重要であり、これからの時代に必要な人材の育成拠点として会津大学がある。しかも成長産業であるIT人材育成を専門とする単科大学である

理由4:会津若松市が復興支援物資のハブセンターになったことからも明らかなように、ここが会津の「津」、周辺地域の交通のハブであり、太平洋と日本海の中間地点という地の利がある

理由5:日本有数の歴史的観光地である会津地域は、原発事故問題を抱えた「FUKUSHIMA」の風評被害を払しょくするきっかけを作り得る地域ではないか

 復興支援の観点から考察した、これらの理由は、その後の地方創生に向けた方針の基礎に引き継がれている。